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リベルタス学術叢書 第1巻
ヘーゲルの行為概念 -現代行為論との対話

ヘーゲルの行為概念 -現代行為論との対話
[ リベルタス学術叢書 ]

著者:ミヒャエル・クヴァンテ(Michael Quante)
訳者:高田純(監訳)、後藤弘志、渋谷繁明、竹島尚仁
2011年10月刊行
定価::本体4,200円+税抜
ISBN:978-4-905208-01-3
出版社:リベルタス出版

ミヒャエル・クヴァンテは、現代ドイツの生命倫理学分野における代表的な研究者であるが、もともとヘーゲル研究者であり、近年多くの解説書を共著で出版している。本著は教授資格論文を基礎とした処女作であり、ヘーゲルの行為論についての世界で唯一の(著者が述べ、また訳者が知る限り)単行本である。英訳も刊行され、国際的評価が向上している。
ヘーゲルの行為論といえば、『精神現象学』や『美学』における行為論が有名である。しかし、これは古代ギリシアにおける悲劇を題材としたものであり、近代における行為を直接に扱ったものではない。
ヘーゲルは『法哲学』においては、古代人と近代人の間には行為の特徴(特にその責任)に大きな相違があるとみなしている。『法哲学』はその第一部「抽象法」と第二部「道徳」において意志と行為の関係を主題としている。本著はまさにこの点に注目し、ヘーゲルの見解の中に、行為をめぐる現代の議論につながる重要な要素が含まれていることを指摘する。
著者はヘーゲル専門家としてヘーゲルの哲学全体を視野に収めながら、現代の行為論(特に分析哲学の行為論)によって提起された論点を念頭においている。本著は古典的著作の文献的、内在的解釈において高い水準をもつと同時に、現代における理論的諸問題への接近という点でアクチュアリティーを持つ。
ヘーゲルの実践哲学に関心をもつ読者だけでなく、現代の行為論を学ぼうとする読者にとっても格好の基本文献となり得る。

本書の構成
第1部 主観的意志
第1章 概念上の諸前提―人格と主体
第1節 法から道徳への移行
第2節 人格から主体へ
第3節 意志の主観性
第4節 主観的意志の形式面
第2章 意図性―主観的自由の形式
第1節 行為知の形式
第2節 意図の思弁的意味
第3節 客観性と相互主観性
第3章 要 約
第2部 行 為
第4章 行為の形式
第1節 出来事としての行為―因果関係
第2節 記述のもとでの行為―企図と意図
第5 章 行為の内容
第1節 行為の内容
第2節 合理的行為と道徳的態度
第3部 結 語

日本語版によせて
私が20 年まえに本書を構想したときには、ドイツ、イギリスおよびアメリカの分析哲学者のあいだではほとんどヘーゲルに関心が向けられていなかった。さらに確認しておきたいことであるが、ドイツの正統的なヘーゲル研究も、分析哲学の研究成果と取り組むという傾向をほとんどもっていなかった。
ヘーゲル哲学と分析哲学とのあいだの対話に道を開くことが両方の側にとって実りあることであると私は確信しているが、さきの理由でこの確信はいずれの側でもほとんど支持されなかった。
一方で、分析哲学のがわでは、ドイツの読者にとってさえ読解が困難なヘーゲルのテキストは理解不可能とみなされ、ヘーゲルの哲学的仮定は怪しげなものとみなされている。しかし、1990 年代中頃にはこのような状況は根本的に変化し、ブランダム(Robert Brandom)、マクドウェル(John McDowell)という現代の分析哲学の重要な主張者が体系的な点でヘーゲルとのつながりを生産的な仕方でもとうと企てた。ヘーゲルに対してこのように明瞭な注目がおこなわれることによって、分析哲学の陣営にヘーゲルへの関心が呼び起こされ、また、ヘーゲル哲学は無意味であるという無条件な疑いが晴らされて、両方の哲学の伝統の間の建設的な対話に道を開くことが可能となった。しかし、少なくとも私が確信するところによれば、このような対話が意味と成果をえるのは、ヘーゲルの中心的テキストと諸概念が詳細にまたは体系的に正確に解釈されるばあいである。「広くヘーゲル的な意味で」というスタイルでヘーゲルに向かうことはおそらくレトリックとしては有効であろうが、事柄の面、すなわち相互理解の点ではそれ以上は進まない。
他方で、正統的なヘーゲル研究は、ヘーゲルとの有意義な対話にとって分析哲学は全く不適当であるという先入観にとらわれていたし、または現在もとらわれている。このような評価はヘーゲルにかんして分析哲学に対する理解不足さらには無知によるものであり、しばしばつぎのような誤解に基づいている。すなわち、哲学的思考の方法としての分析哲学と、特定の哲学的な教説(たとえば科学主義あるいは自然主義)のセットとしての分析哲学とは区別されないというものである。分析哲学ということで、内容的な立場のみを理解するならば、このように理解された分析哲学とヘーゲルとのあいだでいかに実りある対話が行われうるかを見てとることは困難になる。分析哲学に対するこのような見方は、正当に批判されうるこの哲学の問題点を指摘しているとしても、短絡的であり、またはそうであり続ける。
本書で行なうように、重点を分析哲学の方法的側面におくならば、この哲学の方法上の自己理解と理想へと方向づけられる。
このようにして、ヘーゲルのテキストと分析哲学の仕事とを相互に関係づける試みは両方の側で啓発的である。ヘーゲルの用語と分析哲学の理論枠との間には大きな隔たりがあるため、両方の哲学的なイディオムを十分に注意深く相互に「解釈的に」翻訳する必要がある。さらにチャンスと確信をえるためには、この解釈作業は詳細に行われなければならない。相互に関係づけられる二つの理論の疎遠さのために、分析は一歩一歩小刻みに進められなければならない。
私が本書においてヘーゲルの仕事に接近する仕方はこの10 年間における発展に基づくならば、おそらく同意されるチャンスをえるであろう。私が扱ったテーマは今後も独自の扱いを受けるに値する。本書の執筆時には行為についてのヘーゲルの概念を詳細に論ずる論文はほとんどなかったということを私は確認していた。ヘーゲル研究一般、特殊的にはヘーゲルの実践哲学の研究には無数の仕事があることを考慮すれば、このことは驚くべきい事実である。ヘーゲルの行為論と分析哲学の行為論との結合がこれまでも研究されなかったというだけではない。このことは少なくとも10 年まえにはまだほとんど注目されていなかったのである。ヘーゲルが法哲学において明確に導入した行為概念そのものもヘーゲル研究においては広く注目されてはいなかった。このことはヘーゲルの法哲学の意味に関してきわめて驚くべき事実であった。ヘーゲルの行為概念はまさに、『法哲学』の道徳の部の体系的構成を明らかにするために適切であろうと私は想定するが、このことによって解釈上の無人島へ突き進むこととなった。
解釈の仮説としての私の議論の根底にある命題が納得いくものでありうるかどうかは、本書の記述を通じて明らかにされなければならない。しかし、この10 年間にヘーゲルの行為概念に取り組む研究はわずかしか登場していないということはやはり確認できる。それらの大部分は、私が本書で行なったのは異なって、普遍的行為論に限定されるのではなく、実践哲学全体の文脈にとどまっており、この点ではヘーゲル自身の扱いと自己理解に従っているにすぎない。さらにこれらの研究はヘーゲルのテキストの内在的な再構成に限定されるか、あるいは体系的解釈にとっての別の基準点を選ぶかである。したがって、本書で示した解釈の提案はこの点でも最近の研究成果によって、時代遅れで余分なものとはみなれえない。
私はこのような理由で日本語版に新しい注釈を加えることはしなかった。このような注釈は一方では私の議論の進行にとっては外的であり、他方では本書においてふさわしい場を十分に与えられないからである。新しい読解のために自分の解釈提案を変更する理由を私は見出さなかったので、ここではドイツ語版テキストを変更せずそのままの形で日本語版のテキストとしたい。
本書の日本語訳を出版するという私の願いを高田教授が力強く支持して下さったことにお礼を申し上げる。とくに高田教授と翻訳チームが、ヘーゲルについてのドイツ語テキストを内容的にふさわしく、語学的に適切に日本語に翻訳するために多大な努力をされたことに対して感謝に意を表したい。

2010年秋
ミヒャエル・クヴァンテ


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